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京都 「銀閣寺」 東山文化を代表する“わび・さび”の世界に思ふ
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「銀閣寺」正式名称「東山慈照寺」は、室町幕府8代将軍の足利義政が創立した東山文化を代表する寺院。
1952年に庭園が特別史跡及び特別名勝に指定され、1994年には「古都京都の文化財」として 世界遺産に登録されています。

京都駅から市バスに乗って、銀閣寺道前で下車。
初秋の晴れた空の下、哲学の道をゆっくりお散歩しながら、「おめん銀閣寺本店」の美味しいうどんをお腹いっぱいに食べて、ようやく今回の目的であった銀閣寺に辿り着きました。




銀閣寺の総門からは、「銀閣寺垣」と呼ばれている立派な垣根を通って、庭園のある入り口となる中門へ。
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まずは、国宝である観音殿「銀閣」がお目見えします。
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「銀閣」というのは、義政の祖父である3代将軍、義満が建てた「金閣」と対比された通称で、「銀閣」と呼ばれるようになったのは、江戸時代以降のことなのだそう。
書院造につながる和風の住宅風意匠を取り込んだ東山文化の代表的建築物で、金閣、西本願寺の飛雲閣とあわせて、「京の三閣」と呼ばれています。

小学生の頃、初めて、金閣寺を訪れたときは、キラキラ光るお寺にかなりテンションが上がりました。
その後、訪れることになった銀閣寺は、“銀色に光っていない”という子どもには信じがたい“噂”どおり、本当に光っていなくて、残念な気持ちになったことを覚えています。

でも、これがいわゆる“わび・さび”なのねと、背伸びしてその美しさを感じようとしてみたりしました。

Wikiによると、「当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」説、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」説、「外壁の漆が光の加減で銀色に輝いて見えたから」説、「当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった」説もある中、2007年に行われた科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっています。

ん、まぁそうでしょうねぇ。。という気持ちになりますが。。

「錦鏡池(きんきょうち)」を中心とする池泉回遊式庭園は、特別史跡・特別名勝に指定されています。
「銀沙灘(ぎんしゃだん)」、「向月台」と称されている有名な2つの砂盛りですが、今のような形になったのは江戸時代後期なのだそう。
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そして、観音殿とともに、東山殿造営当時の遺構として現存するのが、国宝「東求堂」。
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東求堂は義政の持仏堂、すなわち阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂で、書斎の北側にある付書院と違棚は現存最古の座敷飾りの遺構で書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上において貴重な遺構となっています。

下段の庭から東部の山腹をさかのぼると「義政公お茶用の湧水」とある「お茶の井」があります。
今でも湧き出るこの美しい水で、義政はお茶を愉しんでいたのですね。
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苔の庭、真っ直ぐな緑の木々、射し込む光。
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義政が8年の歳月を費やし、自らの美意識を投影したという一大山荘を眺めながら、その精神世界を象徴した美しさに触れられたような気がしました。
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ということで、銀閣寺を訪れたのは、小学生の頃の家族旅行、中学生の頃の修学旅行に次いで、3度目。
初めて訪れたときとも、2度目に訪れたときとも、また違った銀閣寺の表情に出逢えたように思いました。
(もう〇年ぶりだから、当たり前かぁ。。。)

そうでした、私はこのときの率直な感想を、twitterでつぶやいていたのですね。
銀閣寺の庭園ってこんなにも穏やかだったかなぁ。昔には感じなかったもの、当たり前だったものが、そうではなくなった瞬間から、感じたり、気づいたりするのかもしれない。どちらが幸せなのかは分からないけれど。

同じ場所で、同じものを見ながら(対象も当時のままではないにせよ)、全く違う印象を受けること。
カントのメガネの話みたいなことかもしれないけれど、そこにあるものは「物自体」であって、見えたものは経験の象徴(経験が決定するもの)であるのかもしれません。

人は経験を重ねると、見えなかったものが見えるようになったり、見たくないものが見えてしまったり、そして、見えないふりをする知恵も生まれたり。。

このときに見た庭園を穏やかだと感じることができたのは、最初から穏やかさを知っていたからではなくて、穏やかさを穏やかさたらしめる経験をしたから。
もしかしたら、穏やかさを知る経験(それは、穏やかではない経験だろうと予測ができる)なんて、人生から除外できるならば、その方が幸せなのかもしれないけど、穏やかであることの幸せを感じることはなかったのかな。。

だから、本当のところ、どちらが幸せか分からないけれど、私個人は前者の幸せを感じていたい。

何も見ないこと、知らないことが幸せなのではなく、見えた喜び、見えてしまった悲しみ、見えないふりをする苦しみ、、、そうした“心が動くこと”を大事にしたいと思う。
0(ゼロ)は、どこまでも0(ゼロ)でしかないけれど、-(マイナス)×-(マイナス)はプラスになるように、後悔からは学びを得られるし、痛みは優しさを教えてくれる、そうやって、自分自身をもっと知ることができる。

初めて訪れたとき、2度目に訪れたとき、3度目に訪れたとき・・・どれが一番大事とかではなく、どれが欠けても、今の私にはならないということ。
それぞれの瞬間に出逢ったことの意味を感じながら、そのときの心の動きを素直に受け止められるような等身大の自分を大事にできる、そんな人でありたいと思います。

嗚呼、“わび・さび”。
(そうでもないってか。)
by meg0307 | 2010-11-30 07:45 | *京都